AIで楽曲を楽器やボーカルに分離する

 秋の足音
    9 月
   

 ここでは、普段から私が考えていることを徒然に書いていきます
 内容は何を書くかわかりませんので、暇な人は見ていってください
 ひょっとしたら私の性格分析ができるかもしれません。


 【9月編】

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★2003.9.30 ・・・・・  赤石岳台風遭遇記・4  ・・・・・

 とぎれとぎれの記憶をたどっては、これを書いているのですが、ちょっと間違いがあることに気がつきました。テントで寝たと書きましたが、正確にはツェルト(簡易テント)でした。ご存じない方もいるかと思いますが、ツェルトとは、簡易なテントでして、一般のテントからアルミのパイプやフライシートをなくしたもので、いわばただの布きれみたいなものです。テントより容量も重量も軽く、夏の単独行にはうってつけの道具です

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 必死になってここまで来たのに、林道が通れないなどということになったら目も当てられませんから、一服するのももどかしく、慎重に車を走らせだしたことは言うまでもありません。林道上は川のようになっている場所があったり、大きな水たまりがあったりと酷い状況に加え、雨は激しく降り続いていますので、いつ土砂崩れが起きても不思議ではない状況です。慎重ながらも急がなければならないので、おのずと心は急いてしまいます。川が増水をして林道上まで満たしている(つまり川が林道まで溢れている)所が1カ所だけあり、この場所では、さすがに車を止め、慎重にならざるを得ません。長靴を履き傘を差して林道の先を見に行ってみると、その間の長さは200mくらいで、深さも、まだ30cmに満たない程度ではありましたが、川と林道の境もどこにあるかわからないし、長靴を履いて慎重に探索を行いました。ここは、右側が山側でのり面になっていて、左側は林道上から対岸まで濁水が流れていることろですので、どのような状況になっているかわからず、川と林道の境界などもちろんわかりません。わかるのは、10数メートル先では、もの凄い勢いで流れている濁流だけで、その流れに巻き込まれれば、ほとんど生きては帰れないだろうということだけです。従って、右側ののり面沿いを慎重に歩いて、林道の状況を確認することにしたところ、なんとか車でも通行できると判断できたので、車に戻り、慎重に山側ののり面沿いを通行して、無事通過することができました。恐らく、あと数時間もすれば、増水で通過することはできなかったであろうと思います
 その後は、小規模な土砂崩れは見られましたが、ひどい土砂崩れはみられず、無事に畑薙ダムまで戻ってくることができました。心配していたダムのゲートも閉められていなく、ここまでくれば、今日中に家に帰り着けるだろうと、ホッとしたことを思いだしました

 山梨の早川と、静岡の安倍川を結ぶ峠道は、間違いなく通行止めになっているだろうと思い、静岡→清水→甲府というルートで家に帰ろうと考えました。これは、国道1号線→国道52号線というルートです。大井川沿いを車で下りてきて、静岡市の市街地に入ろうかという頃になると、雨が小降りになってきて、ラジオからは『ただいまの時間、台風が清水市付近に上陸した』と告げていました。なんと足の速い台風でしょうか。予想をはるかに超えたスピードでやってきた台風は、すでに本土へ上陸をしようとしていたのです

 結果的には、いったん静岡へ上陸したものの、その後は勢力を弱めながら太平洋側の海岸線を東北東方面へかすめて行ったような記憶があるのですが、そのことよりも、それほどの接近に気がつかず、一人で山を歩いていた事を思い出すと、多少無鉄砲だったのではないかと反省している所です

 静岡市内で遅い夕食を済ませ、家に電話してみると、僕が南アルプスに入っているということを知っている数人の知人から、心配する電話があったみたいなので、それらの人に無事だとの連絡を入れ、帰路につきました。清水市から国道52号線を甲府方面に北上していると、そこかしこに旧建設省の車や、地域の消防団が警備にあたっていて、しばらく進むと、とうとう通行止めになってしまいました。どうやら降雨量が危険水準を超えてしまったみたいなのです。仕方がなく、小さな山越えを繰り返すルートで甲府盆地を目指し、無事に家にたどり着いたのは、真夜中になっていたように記憶しています



 それほどたいしたことではないことを、長々と書きつづってしまいました
 その後、数日間この台風に関する情報を新聞やTVで見ていたのですが、この台風では、それほど大きな被害はでなかったようです。ですから、それほど大きなものではなかったのだろうと思います

 今、同じような状況に遭遇したら、間違いなく小屋に停滞していると思いますが、当時は、怖いもの知らずでしたので、無理に無理を重ねて行動をしてしまいました。まあ、事故に遭わなかっただけでもラッキーだったのかもしれません。反面、自然界に足を踏み入れるということは、さまざまなリスクが待っていることを、この件でいろいろと経験することができました。もちろん、疲労凍死の疑似体験ができたことは、非常に貴重な経験でして、野外で活動するのには何が大事かということを、しみじみと実感しました
 また、最低限必要な装備の重要性も身に染みてわかり、それまでの山行では活躍の場がなかった古い新聞紙やビニール袋も今回だけは大活躍をしたと思えば、頼りにしていたカッパは、あまりの激しい雨に、ほとんど役に立たなかったりと、いろいろな経験をしました

 実は、この時のカッパは、いわゆる『ゴム引き』のカッパだったのです。ゴアテックスのカッパは、普通の山歩きには軽くてさほど蒸れることなく軽快で良いのですが、反面藪漕ぎなどには非常に弱く、すぐに破れてしまったりします。現在は、ゴアが2重とか3重に重ねられていて強度の高いものもあるようなのですが、当時は、ゴアも1枚のものしかなく、強度的にはとても激しい使用に耐えるものではありませんでした。そのため、普通の登山をする時は、ゴアのカッパを使い、猛禽観察を伴う場合は、ゴム引きのカッパと使い分けをしていました。この時には、猛禽観察も兼ねているのでゴム引きを使用していましたが、はたしてゴアではどうだったのだろうか・・・・・?
 この時の登山靴は、普通の革製のものでした。皮革部にはミンクオイルをたっぷり染みこませてあり、縫い目(シーム部分には、防水用のため接着剤を染みこませてあるものです(カッパの縫い目も同じようにしてあります)。それでも、結局は靴下までびしょ濡れになってしまいました。まあ、もの凄い雨でしたから仕方がないのかな? 
 特に理由があるわけではありませんが、それ以降の夏の登山靴は、スノトレ(スノートレッキングシューズ)に代えました。どうもこちらのほうが軽くて歩きやすかったのが最大の理由で、当時は軽登山靴というとキャラバン社のものしかなく、とてもその靴だけは履く気がしなかったからです。今は、軽い軽登山靴を履くようにしています
 登山道沿いにあるテン場では、さすがにしませんが、基本的には焚き火が好きなので、山や川で寝る時には焚き火をします。ですから、火を熾すためにいつでもある程度の新聞紙を持参していくのですが、この時には、初めてといっていいくらいこれで助かりました。避難小屋に避難した時に、簡単に火を熾すことができたからです(仮に新聞紙がなくても、ストーブで板に火を付けてもかまわなかったのですが・・・・)。
 それと濡れては困るものの保存ために大きなゴミ袋も、何枚も持っていきます。基本はゴミ袋なのですが、さまざまな用途に使うことができるからです。衣類や新聞紙などの濡れて困るものは、確実にビニール袋の中に梱包していきます。食料を包む時もありますし、時には、ザックの中味をまるまる梱包する場合もあります。こうしておけば、川などでは浮き輪の代わりにもなります。使い方は、人それぞれだと思いますが、この時は、このビニール袋にも助けられた部分もかなりあるのではないかと思っています

 事故というのは、結局のところ、計画ミスとか判断ミスから生じる事だと思います。この時は、ラッキーにも事故を回避できたのですが、計画ミスや判断ミスがあったであろう事は言うまでもありません
 安全に登山を行うためには、しっかりとした計画と装備が必要だし、的確な判断が求められ、そうすることにより軽快で安全な登山を楽しむことができるはずです。もちろん、それだけで100%事故を防げるかというと、完璧であることは補償されず、いつどこで不測の事態が起こるかわかりませんが、無計画な登山よりは、はるかに安全性が高まることでしょう
 みなさんも、登山などをする時には、適切な計画を立案して、安全で快適に楽しむようにしてください!


 とは書きながらも、僕の心は、これっぽちもそのようなことを考えているわけではありません。天気が良くて、計画通りに山に登り、楽しんで帰ってきた時などは、それはそれで、その時は楽しんできたのに、少し経つとすぐに記憶が薄れてしまい、10年も経つとすべてを忘れてしまいます(僕だけかもしれませんが・・・)。思い出として記憶に残っているのは、なんらかのトラブルがあった時とかの事だけです
 ですから、人にはあまり勧められませんが、多少はトラブルが想定されることを実行することも、思い出に残ったり、トラブルを楽しんだりすることができるのでイイかな・・・と。もちろん、このことは、自己責任でお願いいたします

 


★2003.9.28 ・・・・・  赤石岳台風遭遇記・3  ・・・・・

 とぎれとぎれの記憶をたどっては、これを書いているのですが、ちょっと間違いがあることに気がつきました。テントで寝たと書きましたが、正確にはツェルト(簡易テント)でした。ご存じない方もいるかと思いますが、ツェルトとは、簡易なテントでして、一般のテントからアルミのパイプやフライシートをなくしたもので、いわばただの布きれみたいなものです。テントより容量も重量も軽く、夏の単独行にはうってつけの道具です

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 避難小屋に着くやいなや、着ているものを全部脱ぎ捨て、素っ裸になり、ザックカバーを被せていてもびしょ濡れになってしまったザックの中から、ビニール袋にくるんだ新聞紙と着替えを確認したのですが、これだけは厳重にパックしておいたので、雨水にも濡れず乾いたままで保管できていました。さっそく、濡れたからだをタオルで乾かし、火を熾すことにしました
 これがまた大変な作業で、火を熾そうとするのですが、手足が激しく震えているので、ライターになかなか火がつきません。火がつかないどころか、満足にライターを握ることができないのです。ライターは普通の100円ライターなのですが、寒さでガタガタと震える手では、ライターを握ることすら満足にできないのです。ガタガタと震える手を、脇の下や膝の内側、あるいは太股の間で温め、ライターの火をなんとか付けられるようにまでになるのには10分くらいかかったでしょうか
 それと、山に登る時などは、毎回コースタイムを記録するようにしていたので、持参しているメモ帳に記録を書こうと思ったのですが、シャーペンを持つ手が震えてしまい、『1』という数字を書くこともできないくらい手が震えていたのです

 やっとの思いで、持参した新聞紙に火をつけ、今度は小屋の中の板を外す番です。こちらは命が関わっていることですから、生き延びるためには、何でもしなければならないため、天井板やら壁板などはがせるものははがしました。そうです、燃し木にするためなのです。板をはがしては燃えている新聞紙の上にかざし、なんとか火が熾きた時には、さすがにホッとして、久しぶりのタバコを口にしながら、お湯を沸かしては、冷え切ってしまった手足や体にかけたりして、少しずつ血行を良くしながら体温を上昇させました。もちろん、ほとんど水分をとっていなかったので、メチャメチャ喉も乾いていましたから、お湯を沸かせては、甘い紅茶を作り、がぶ飲みして体温上昇と疲労回復を図ることも忘れませんでした
 新しい下着や服を着て、なんとか人心地がついたのは30分以上経過した頃でしょうか。あとはひたすら尾根を下るだけですから、ここまでくればとりあえず半分くらい安心できたのですが、山を降りてからも、果たして林道が無事通過できるかどうかという不安がまだまだ残っていますので、僕の気持ちはすでにそちらに向いていました。簡単な食事を済ませると、すぐに下山準備を始めました。あとは尾根を下るだけなのですが、午前中の経験から雨水対策だけはしっかりしておこうと、これからの着替えをチェックしたところ、まだ着ていない服が2セットありましたので、少しでも快適に歩くことができるようにと、下山途中にある赤石小屋で、もう一回着替えることにし、さっそく準備にかかります。今回は下着の下(腹側と背中側)に新聞紙を入れ保温と水分吸収を図り、濡れるのを少しでも減らすために大きなゴミ袋の底の中心と横に、頭と両手が通るような穴を開け、それをスッポリ被って雨水の浸入に備えることにしました

 パッキングを済ませ、焚き火を確実に消化して、猛烈な風雨の中を再び歩き始めたのは、小屋に避難してから1時間以上が経過した頃だと思います
 考えられる万全の支度をして、体力も十分回復していたので、ここからの尾根下りは想像以上に快調でした。心配された体への雨水の浸入でしたが、ビニール袋をかぶったおかげで、雨水の浸入はだいぶ食い止めることができましたが、横殴りに振り付ける雨の為、首から染みこんでしまう水だけは防ぐことができなかったのですが、概ね満足のいく防水効果も得られ、体もそれほど冷えることなく、歩くことができました。稜線上の登山道から、赤石小屋に下る登山道の分岐地点では、一人の登山者が猛烈な風雨の中を休息していたので、声をかけてみると、荒川小屋から単独で百間洞山の家を目指してきたのだが、あまりの風雨の強さのため、危険を感じたので赤石小屋に避難する予定だということなので、一緒に赤石小屋まで歩くことにしたのですが、とても話をしながら降れるような状況ではないため、二人で黙々と歩を進め、無事に赤石小屋に到着しました

 タバコを数本くゆらせてから、再び着替えをおこない、身支度を整え、再度新聞紙とゴミ袋で雨水対策を行い、最後の下りに備えました。最後に、熱い紅茶と最後のタバコを吸い、いざ下山です
 赤石小屋付近は、上空はすさまじい風が吹き荒れているのですが、登山道はすでに樹林帯の中なので、風の影響はそれほど受けなく、今までよりははるかに条件は良いのですが、猛烈な雨のため、登山道は川のようになっていて、茶色く濁った水が激しく登山道を流れているので、とても歩きにくく、濁水で見えない木の根で滑ったりしたので、何回かころんでしまい、よっぽどゆっくり下ろうかなとも思ったのですが、激しい雨のため、どうしても林道が心配になり、結局、林道に出るまでは休みなしで長い尾根道を、ただひたすら下っていきました

 やっとの思いで林道に到着すると、想像通り林道上にも川のように水が流れていて、もの凄い雨量であることがわかりました。『やはり、一刻も早くこの林道を抜け出さないと危険だ』と思い、休むことなく林道を歩き続けることにし、車を止めてあるところに到着したのは、5時少し前だったと思います。車を止めて置いた場所は、緩斜面の林道の広い場所でしたので、土砂崩れにあうこともなく無事にその場にあったのですが、案の定、東○フォレストから、『この林道は一般車両通行止め』である旨のでっかい張り紙を、車に貼り付けられていました

 さっそく、ザックを荷台に載せ、車のエンジンがかかるかどうか試してみました。エンジンはすぐにかかったので、一安心してヒーターを最強に効かせながら、車の中に入れておいた着替えを引っ張り出し、車の中で最後の着替えを済ませました




★2003.9.27 ・・・・・  赤石岳台風遭遇記・2  ・・・・・

 あれだけ煩かったセミの声も、まったく聞こえなくなり、季節は完全に秋に移行してしまったのでしょうか? 今日は昨日の続きです

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 そうこうしているうちに百間洞の幕営地へ到着し、テントを張ったのですが、この頃になると、風もかなり強くなり、いまにでも雨が降り出しそうな天候となっていました。軽く酒を飲み、簡単な食事を済ませる頃には、雨が降り出していたと思います。それでも、これくらいの風と雨くらいだったら、なんとか明日は大丈夫だろうと思い眠りについたのですが、風雨は知らない間に強くなり、夜中にはテントが吹き飛ばされそうなくらい強烈になってきました
 テントの外を見てみると、夕方見た光景とはまったく違い、ダケカンバの幹はきしんだり、枝がビシバシ折れているような状況で、近くに張ってあったテントの数も、夕方の半分くらいになっていました。恐らく、百間洞山の家に避難したのでしょう。しばらくどうしようか考えたのですが、これ以上の風になると、独りでテントをたたむのもままならだろうと判断して、夜中(といっても明け方近くだと思う)ですが、撤収して小屋に避難しようと判断して、苦労しながらテントを撤収して、小屋に向かいました
 小屋に着くや、夜明けまで仮眠をして、他の登山者が起きる頃には、僕も浅い眠りから目覚め、情報を収集すると、やはり台風が迫っているとのことでした。どうも、出かける前に発生した台風は、猛烈なスピードで本土に迫っているとのことでした。本日の予定は、兎岳→聖岳と越え、猛禽を探しながらゆっくりと下山する予定だったので、どうしようかとしばらく考えました。選択肢は2つです。ここで1日停滞するか、無理にでも下山するか・・・・です。安全を重視するならば、停滞するしかありませんが、心配になるのは、仕事と林道に止めておいた車です。昭和57年に南アルプスを襲ったような台風であれば、林道に止めておいた車は、完全に流されてしまうだろうし、林道はメチャメチャに寸断され、川の水が引くであろう4〜5日間は、山の中で足止めになることは間違いありません。そうなると、心配になるのは、家族が心配するであろう様子でして、ろくに行き先も告げないで、いつも飛び出してしまうから、心配されて救助隊でも出されたらどうしようかと・・・・・

 そんなこともあり、結局は下山することに決めました。あとは下山コースの選択です。予定どおり聖岳から下山するか、赤石岳から下山するかのどちらかです。聖岳のコースは、沢を渡るし傾斜がきつい斜面を歩くコースで、それに対して、赤石岳のコースは、尾根上を下るコースなので、安全に山を降りるのならば、赤石岳の尾根下りコースで、おまけに稜線上は昨日歩いているので、だいたいの様子はわかっています。それで、赤石岳から下山することに決めました
 下山すると決めたのですが、やはり一人では心許ないこともあり、同行者がいれば一緒に下山しようと、小屋にいる登山者に声をかけてみたのですが、思ったとおり全員が停滞するということなので、仕方がなく一人で下山をすることにしました

 小屋を出た時間は、朝6時に近い時間だと思います。赤石岳から百間洞幕営地までは、たしか2時間程度でしたので、百間洞山の家から赤石岳山頂までは3時間半くらいで登れるだろうし、4時間くらいみておけば楽勝に登れるだろうと、「気をつけてください」という他の登山客の声とともに、ゆっくりと小屋から出発しました。小屋と幕営地の間は、さほど距離もなく30〜40分程でしょうか。この間は、森林限界近くの樹林帯でもあり、風向きと逆の谷斜面でもあるためさほど風雨の強さを感じなかったので、この調子で行けば楽勝で下山できそうだと思って、足取りも軽く歩を進めてきたのですが、昨晩の幕営地に着く頃には、風雨とも激しく感じられてきて、幕営地にはテントが1張りしかありませんでした。それと、撤収時に飛ばされてきたであろうと思われるフライシートらしきものが、近くの木に風で張り付いているのも見えました
 幕営地を過ぎ、百間平という尾根にとりついた時には、横殴りの雨と強風で、視界はほとんど無く、足元の踏み跡だけが頼りの歩きになってしまい、強風にあおられながらも、かろうじて歩を進めることができるという状態になってしまい、赤石ピークまでの道程を考えると、ちょっときつそうだなという心境に少しなってきたのですが、現在と違って体力はあるし、足も強いと思っていましたので、この頃は、まだまだ何とも思っていませんでした
 百間平を過ぎ、いよいよ本格的な登りになってきたと同時に、風雨はさらに激しさを増し、自分の汗とともに、カッパのあちこちから雨水が体を濡らすようになってしまい。パンツから靴下までびっしょりになってしまうのに、さほど時間はかかりませんでした。それとともに体温も急激に低下していき、風による寒さとともに体力がみるみるうちに低下していくのに、自分でも気がついてきました
 まだ尾根に取り付いたばかりというのに、これほどになろうとはこれっぽちも思っていませんでした。体力の低下を自分でも激しく感じ、ここまで休息もせずに1時間以上も歩いてきたので、少し休もうかと思い、激しい風雨を避けるため、大きな岩の岩影まできて歩を休めたところ、1分もせずに体がガタガタと震え出してきたのです。体温が低下しすぎていたのは明らかで、雨が体を濡らし、激しい風に吹かれ続けていたのが、想像以上に僕の体力を奪っていたのです

 『このままの状態では、休むわけにはいかない。休息など行うと疲労凍死してしまうだろう』と、すぐに気を取り直して、再び歩み始めたのですが、最初の目的地である赤石岳の避難小屋までは、まだまだかなり距離があります。普通であれば、2時間もかからずに登れると思うのですが、行く手を遮る激しい風雨と、体温・体力の低下という状態では、どれくらいの時間がかかるのかわかりませんが、歩みを止めて休んだりするといきなりふるえが襲ってくるので、休むこともままならず、このまま赤石岳の避難小屋に到着しなければ、間違いなく疲労凍死するという状況に陥ってしまったのです

 このような状況下に陥って、体温・体力とも低下しているなかでも、頭の中は以外と冷静でして、疲労凍死してしまうのは、このまま疲れすぎて寝てしまうのが疲労凍死をする最大原因となるはずなのですが、体がガタガタするくらい寒さに震えているこのような状態で、人間は果たして眠るのだろうか? という素朴な疑問が頭に浮かび、どうせ体もびしょ濡れだし、体力がまだあるうちに検証してみるか・・・とばかり、そこにあった大岩の影で、寒さに震えながらも横になり、少し目をつぶってみたのです。驚くことに、またたく間に意識が遠くなっていくのが自分でもすぐにわかりました。つまり、寒さにガタガタと震えているのですが、簡単に眠ることができそうなのです。この瞬間、生まれて初めて『死』が身近にあることを感じ、今はその狭間にいることを意識したのです

 普通であれば、この時点で引き返すのがベストの選択なのでしょうが、体力に自信があった当時の僕は、『ここまで来たのに、引き返すのも面倒くさいし、これから、休まずに登り続ければ、別に問題はないだろう』と、再び避難小屋を目指して歩き始めました
 それからが、大変でして、地獄で行進をしているようなものでした。ちょっとでも立ち止まるとガタガタと震えがくるばかりか、唇まで震えてくるようになってしまい。ちょっと立ち止まると、いっぺんにそれらが激しさを増すので、立ち止まることもままならず、30〜40分歩いては、5秒ほど休息をするというパターンで、ただひたすら歩き続けました。歩き続けるといっても、もの凄い強風ですから、とても普段どおりに歩くことはできません。気を緩めると、すぐに強風に吹き飛ばされそうになるからです。横殴りの雨も、横というよりは下から吹き上げてくるようにもなり、目を開けていらないくらいなのです
 そのなかを体温・体力とも低下した体で歩くのですから、とても普段の半分のスピードもでなくて、足元だけを見つめながら半歩づつ歩を進めるという感じでした。疲労も増し、横殴りの雨の彼方に、赤石岳避難小屋がかすかに見え隠れしだした時には、正直なところ『これで、なんとか助かった!』という感じで、それまでは、『このままトボトボ歩いているうちに、いつかは疲労凍死してしまうかもしれない』ということが心の片隅にあったのですが、命拾いをしたなぁ・・・・・と、しみじみと思ったものです

 この間は、実際はたいした距離ではなかったのですが、避難小屋に着いたのは、12時を過ぎていた時間だと思います。6時間以上の間、強烈な風雨の台風の中を、濡れた体で休息無しで歩いたことになるのです。今では、とうてい考えられない事です




★2003.9.26 ・・・・・  赤石岳台風遭遇記・1  ・・・・・

 遭難寸前で真っ先に思い出すのは、かつて赤石岳に登った時のことです。この時は、初めて「死」を身近に感じた出来事で、いまだにその時の状況はあるていど鮮明に覚えています

 それは、今から15年ほど前の1987年8月(たぶん)のことでした。知人から『南アルプスの千枚岳付近でイヌワシらしきものを見た』という情報を得たので、その情報を確認かたがた南アルプス南部の山々でも巡ろうかということで、夏休みを利用して単独行をした時のことです
 今では、一年中通行止めになっている大井川上流の林道ですが、当時は夜は警備もいなくて、そのまま通行できました。夜中に椹島まで車で入り、ここから、荒川三山→赤石岳→聖岳と巡って、2泊3日で猛禽を探しながら山歩きを楽しもうかというプランでした。もう2日ほどあれば光岳もピストンすることができたのですが、重要な会議か何かがあって、どうしても帰ってこなければならないので、光岳はあきらめることにして、ゆっくりと猛禽と山歩きを楽しむことにしたのです

 知人の車(バン)を借りて出かけることにしたので、夕飯を家で食べた後、知人の家に僕の車を置いて、車と一緒にヘルメットとスコップを借りて行きました。なぜヘルメットとスコップを借りたかといいますと、本来は通行止め(一般車両通行不可)の林道なので、いかにも作業用の車という振りをするという、浅はかな知恵からでした。林道をパトロールしている車に出会っても、いかにもそれらしくしておけば、少しはイイかなと・・・・・

 真夜中の林道を飛ばしながら、目的の椹島に到着したのは、夜中の2時過ぎくらいでしたでしょうか。椹島ロッジまで行ってしまうと、見つかってしまうかと思い、1kmほど手前の林道の少し広いところへ車を止め、登山道の登り口まで林道を歩き、登山道の入り口で夜が明けるまで草むらで横になり仮眠をとってから、登り始めることにしました
 通常、猛禽を観察するときには、谷の下から見上げながら観察するというパターンが多いのですが、南アルプスは奥が深くけわしく大きな山塊なので、そのような観察方法はとることができません。そのため、今回は登山道を登りながら見晴らしの効く尾根や岩場があったら、そこから観察を行うというパターンです
 観察時間を少しでも長く取ろうと、夜が明け仮眠からさめるとすぐさま登山道を登り始めましたが、しばらくの間は樹林帯のため、ほとんど視界も開けず、少しずつ視界が開けてきた頃には、そろそろ千枚小屋に着こうかという所でした。途中途中では休息もかねて、まばらに生える樹林の間から猛禽を探すも、なかなか簡単には見つけることができなかったのですが、それでも、一度だけクマタカの飛翔を観察したのですが、目的のイヌワシではなかったので、ちょっと残念でした
 その後も、開けた視界を求めて登り続けたのですが、結局、本格的に観察を行うことができたのは、森林限界近くの千枚小屋付近で昼食を食べてからでした。双眼鏡と望遠鏡+三脚、水筒だけを持ち、ザックは小屋に預けておいて、なんとか近くで開けた場所を見つけては観察し始めたのですが、知人からの情報の場所では、クマタカが3羽ほど見られただけで、地形や植生等を考えても、仮にイヌワシが生息していても、中心域は、この谷ではないだろうと考えられたので、今回はここではなく、少し足を伸ばしたところにある聖岳周辺の沢を見てみようと変更することにしました
 昭和57・58年と連続して南アルプスを襲った台風により、このあたりの山は倒木だらけで非常に歩きにくいだろうと想像をしていたのですが、登山道はもの凄く綺麗に整備され、倒木による障害などは全然見あたらなかったので、小屋のご主人に尋ねてみると、『半月ほど後に、現皇太子殿下が登山に来るので、隅から隅まで整備を行ったんさ』とのことでした
 この日は、夕方まで付近で観察をして、千枚小屋のテン場でテントを張り眠りにつきました。単独行の良いところは、なんといっても「早寝」ができることです。なぜ早寝ができるかと言いますと、何にもやることが無いからなのです。独りで酒を飲んでいても、すぐに酔ってしまうし、しかも、他にやることが何もないし、おまけに話し相手もいないし、身体は疲れていますので、好むと好まざるに関わらず早寝になってしまうのです
 早い時には8時くらいには完全な眠りに陥ってしまいます。とても普段の生活からは想像もつきません。そのかわり、起きるのは夜中の3時前後という、とんでもない時間に目が覚めてしまうのが、僕の山時間みたいなものです。ですから、起きたらコーヒーでも飲んで、テントを撤収して、夏なら早朝の4時〜4時半くらいから行動を開始することになるのです

 2日目の予定は、悪沢岳(荒川三山)と赤石岳を縦走して、百間洞の幕営地までです。少し先を急いで百間洞まで来てしまえば、次の日は聖岳周辺をゆっくりと観察することができるからです。たまに出てくるライチョウと遊んだり、休息時に猛禽を探しながら赤石岳に到着した頃でした。生暖かい南風が強くなってきて、この時は、「あれっ、何か変な風だなぁ。台風の風にしては、早すぎるし・・・」などと考えていましたが、赤石岳から百間洞に向かう途中では、風も徐々に強くなり、巨大な雲の固まりが猛烈なスピードで近づいてくるのを見るにつけ、やっぱり台風が近づいているんだと確信しました

 (家を出かける時には、台風の発生は知っていたのですが、予想では本土に接近するのは5日後くらいという予報だったので、今回は安心してラジオを持ってきていなかったのです。といいますか、過去の経験からでも、ラジオなどぜんぜん聞かないので、邪魔になるだけという感じで持ち歩かないだけなのですが・・・・・)

 
 10数年も前の話を、思い出しながら書いていますので、記憶違いのこともあるかもしれませんが、その際は、お許しください




★2003.9.13 ・・・・・   残暑対策   ・・・・・

 残暑が厳しいですね〜

 ここ数日、思いもよらぬ残暑で、みなさん少々バテ気味ではないのでしょうか? 7〜8月と冷夏であったぶん、ここにきての厳しい残暑は、さすがに応えますね〜
 甲府では、ここのところ毎日35度以上の猛暑が続いているだけではなく、夜は夜で熱帯夜が続くなど、残暑というよりも、本格的な夏がきているのではという感じです。今までは、昼間暑くても、夜は結構涼しくて、過ごしやすかったのですが、ここ数日は、夜温が下がらないので、夜も不快な思いをせざるをえません。せめて夜でも気温が下がってくれれば良いのですが、風もない夜は、なかなかつらいものがあります。窓を開けていても、コオロギの声はさかんに聞こえてくるのですが、秋という実感は全くなく、コオロギの鳴く声にすら違和感を感じるほどです

 このように夜まで暑いと、否が応でも生活パターンを変えざるをえません。何を変えているかというと、一番大きいのは、酒の種類の変化です。よほどのことがない限り、365日毎晩『ビール→日本酒』というパターンで晩酌をしているのですが、ここしばらくは、日本酒を飲むと体が火照ってしまい、寝付きが悪くなってしまったので、日本酒を減らして、焼酎を飲むようになってしまいました。日本酒を飲んでいるといっても、もちろん熱燗ではなく、冷蔵庫で冷やした「冷や」を飲んでいて、飲んでいる時はもの凄くおいしいのですが、その後に体が火照ってしまうことを思うと、なかなか日本酒にも触手が湧かず、ここ数日は、軽い焼酎の水割り専門になってしまいました
 それと、ビール(といっても発泡酒ですが)も、キリンからアサヒに替えてしまいました。特に理由はないのですが、酒屋さんにビールを買いに行ったところ、そこのご主人から『風さんには、そろそろこのビールが良いんじゃあないですか?』というような感じで薦められたので、「ラベルも涼しげだし、糖質50%オフというのも、いいかなぁ」という具合で飲み始め、結局のところ、淡麗から本生に乗り換えてしまったのです。まあ、味はさほど大きな違いはないのですが、ラベルのデザインなどは、本生の圧勝という感じですね

 
 あぁぁぁぁ〜〜〜〜 それにしても、暑い!!!




★2003.9.9 ・・・・・  そうだ京都へ!・2  ・・・・・

 河原町で飲んだ後は、IさんもYさんも帰りの電車がないこともあり、僕の泊まっている宿に泊まることになりました。たまたま僕が泊まる事になっている部屋は、トリプルルームでしたので、ちょうどベットが二つ空いていましたので。僕が先にホテルに入り、非常口から二人を呼び込もうという算段でした
 僕が先にホテルに入り、鍵を受け取ってから非常口を開け、二人を呼び込み、無事に入ったと思ったのですが、どうもフロントに見つかってしまったようで、すぐに部屋の電話が鳴り響きました。1回目の電話は無視していたら、鳴り止んだのですが、しばらくして2度目の電話も鳴り響き、これも無視。次に3回目の電話が鳴ったときは、さすがに観念し、IさんとYさんの二人は、しかたがなくチェックイン手続きをしてお金を支払ってきました。どうも、フロントから通路が見えていたのが、見つかってしまった原因のようでした。悪いことはできませんね〜

 翌日は、3人で朝食をとり、IさんとYさんの二人は、仕事だということで、二人をJR京都駅まで送り、僕は平安神宮まで戻ってきて、クマゼミを探し、京風うどんらしきものを食べ、一路名古屋(とはいっても、三好町というところですが)に住む知り合いの家を訪ねたのです

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 さて、『クマゼミシャワー』という言葉があるかどうかわかりませんが、夏の西日本へ行くと、やたらとクマゼミの鳴き声が音のシャワーのように耳に入ってきます。地元の人は「うるさいだけや!」と思っているのかもしれませんが、東日本の人からすると、大きなうるさい鳴き声のクマゼミの声は、珍しくてとても心地良いのまのです。もちろん、その姿形も含め、僕の好きな昆虫の一種です

 どうでも良いことなのですが、本など見るとクマゼミは「シャワシャワシャワシャワシャワ・・・・・」と大きな声で鳴くとありますが、僕の耳には、どうしても「シャンシャンシャンシャンシャン・・・・・」としか聞こえないのです
 僕が、夏に関西地方を訪れる楽しみの一つが、このクマゼミの声を聞くことなのです。関東と関西では、動物や野鳥などは、それほど生息しているものに差は無く、個体数や生息密度の違いや、生息環境の違いくらいなのですが、こと昆虫に関しては、こちらとはまったく違うものが生息しています。他の昆虫については、局地的に生息していたり、発生時期が短かったりと、それらと出会う確率は非常に低いのですが、このクマゼミだけは、個体数も多く、どこにでもいるし、姿は見えねども鳴き声は大きく、発生期間も長いので、ものすごく目立ち、僕にとっては夏の関西を代表する風物詩ですらあると感じているのです
 ところが、鳴いているこのクマゼミを見るのは、意外と困難で、5mくらいの小さな木で鳴いていても、その姿を見つけるのは難しいのです。「声は聞こえど姿は見えず!」・・・まさに、そんな感じで、鳴いている木の下に行って、あちこちと眺めまわしてみても、なかなかその姿を発見することができません。
 彼らは木の幹ではなく、細い枝に止まって鳴いていることが多いからなのです。一緒にいるアブラゼミなどは、ほとんどが木の幹で鳴いているのに、クマゼミは細い枝で鳴いていることが、ほとんどなのです
 今回も、弱ったクマゼミでもいいから、なんとか捕まえてみようと思い。宿近くの京都国立美術館から平安神宮にかけて探し回り、やっと捕まえたのがこの写真です。色は黒く、大きさもでっかくて、なんとも言えず、渋くてカッコイイです

 このクマゼミは、何匹も鳴いている木の近くで見張っていて、他の木の低い枝に飛んでいくのを見つけて、やっとの思いでゲットしたものです。よほど持ち帰ろうかとも思ったのですが、やっぱりやめてしまいました
 山梨でも南の地方に行くと、たまには鳴いているのですが、僕の住む甲府市内では、憶えている限りで2回しか聞いていなく、甲府にまでは進出していないということが、クマゼミ好きな理由かもしれません


 あちらこちらで聞くことができるクマゼミの声とともに、今回目にとまったのは、やはり虎(阪神タイガース)関連のお店でした。あの高島屋ですら、1階の入り口では、虎の写真展をやりながら、グッズを販売していたし、京都の町中を走っていても、そこかしこに虎模様に塗られた店を見ることができました

 今年は、優勝しそうなので、たくさんの阪神ファンが燃えている現れなのでしょうか?

 この写真のお店は、京都市内ではなく、山科にあったお店の写真です







★2003.9.2 ・・・・・   そうだ京都へ!   ・・・・・

 JRの宣伝にのせられたわけではありませんが、ちょと京都へ出かけてきました。先日アナウンスした吉田眞理子さんの絵画展を見に行くためと、たまには京の都の空気を吸いに・・・という感じです

 土曜の午後に甲府を出発して、夕方5時半くらいに京都に着き、さっそくいつもの宿に宿泊の手配をし、車を置いて、歩いて絵画展の会場である高島屋四条河原町に行きました。デパートの中に入ってみると、中は意外と広くてちょっとビックリするくらいの広さで、また、当たり前のことですが、周りから聞こえてくる会話は京都弁ばかりで、「おっ、さすが京都だ」と、なぜか感心してしまいました。文物や自然もさることながら、このように、土地の人々の会話を聞くことも、旅の一つの楽しみといえるでしょう。関西弁とはそれほど馴染みがあるわけではありませんが、京都弁というのは、しっとりと落ち着いた感じがして、なかなか良いものです

 会場は6階の画廊にあるというで、さっそく6階に行ったのですが、なかなか会場がみつからず、友の会の受付カウンターに女性がいたので、尋ねてみみました。受付嬢はとても親切に教えてくれて、会場は今いる場所のちょうど反対の位置するところでした。この受付カウンターの女性が、これまた親切で優しい京美人の方で、久しぶりに感心してしまいました。皆さんも京都に行った際は、ここに寄られることをお勧めしたいくらいでした

 会場に着くと、これがなかなかの盛況で、たくさんのお客さんが、彼女の絵を見ていました。僕も、挨拶もそこそこに、見させていただいたのですが、その間にも、お客さんや友人の方、その他諸々の人達がひっきりなしに訪れては、絵を見たり、彼女と話をしたりという感じで、ゆっくりと絵を見たり、彼女と話ができたのは、夜も7時を過ぎた頃くらいでしょうか・・・・・それほどの盛況振りでした

 そのうちに、僕の知人のIさんも会社の後輩を伴って会場に到着し、これで、本日飲むメンバーが勢揃いしまして、あとは20時の閉店時間を待つだけとなりました。館内放送が、店舗の終了を告げるや、知人のIさん・その知人のYさん・眞理子さん・僕の我々4人は、夜の街に繰り出し、久しぶりの宴会となりました
 京都ではすでに何回も飲んでいるし、その度に、地のモノもいろいろと食してきたので、少し変わったものだったら、一度は食べたことがあると思っていたのですが、今回、生まれて初めて口にしたものがありました、それは 『生肝』 というもので、なんと、鶏の肝を生で食べるという恐ろしいものでした。牛だったら、たたきやレバ刺し、ユッケなど普通に食べていたし、小さい頃から鶏に関しては、ササミしか生で食べることができないと信じていた僕には、鶏の肝を生で食べるというのには、かなり驚かされました。今回、飲んだお店は、各テーブルに炭を熾した七輪が乗せられ、この上でイカなどをあぶって食べていたので、Yさんが、この生肝を注文した時にも、焼いて食べるものだと思っていたのですが、注文の品がくるやいなや、『おいしい〜!』と言って、焼きもせずにタレに付けて口に運んでいる姿を見た時には、いささか驚いてしまいました。まさか生で食べるとは・・・・・
 いろいろと尋ねてみると、鶏の肝でも新鮮なものは、こちらでは生で食べるということで、付けダレは、牛のレバ刺しと同じごま油に塩を混ぜたものでした。モノは試しとばかり、僕も一切れタレに付けて食べてみたのですが、牛レバほど臭みもなく、非常にあっさりとした味で、意外と美味しいものでした。それにしても京都の食文化は恐るべし!・・・・・でした

 本日の写真は、絵画展会場の風景と、僕が一番気に入ったアケビの花の絵です。このアケビの花は、最初に見た時はマユミと勘違いをしてしまい、大恥をかいてしまったものです。写真も写りが良くなくて、わかりにくいのですが、細密に描かれた素晴らしい作品でした。この素晴らしさが伝わらないのが残念ですね



★2003.9.1 ・・・・・   塩の道・4   ・・・・・

 冬季オリンピックがらみで、非常に道が良くなり、日本海が近くなったのは嬉しいことなのですが、いつもいつも同じ道(千国街道)を往復するだけでは芸がないと思い、今回の帰りは、少し早く糸魚川を出て、長野の善光寺を参詣して帰ろうと思い、白馬から山越えで長野へ抜ける道を選択したのです

 少し前に、この道が広くなり、以前よりもかなり早く通れるようになったと言うような噂を聞いたので、この道を選んだのですが、行けども行けども狭く細い街道が続き、どうやら誤った情報を受け取ったのか、僕の聞き間違い(勘違い)であることが判明した頃・・・・・

 ・・・・・グァガガガガァァ・・・・・

 という雑音とともに、聞き慣れた声が無線機から聞こえてきました

 どうやら、近くに知り合いがいるようで、こちらから無線を飛ばして聞いてみると、どうやら3人で、近くで猛禽を観察しているようでした。さっそく、観察している場所に向かってみると、そこには山梨・長野・新潟の3人の仲間が車を止めて、猛禽の観察をしている最中でした
 小一時間ほど歓談し、我々一行は善光寺を目指して出発したのですが・・・・・それにしても、こんな山奥の中で仲間に会うとは思ってもいなかったので、ちょっとビックリしました。また、無線の威力にも驚かされた出会いでした

 そんなことがあり、少し道草をしながらも善光寺に着き、さっそくお参りをし、子供を連れて戒壇めぐりをしようと、本堂の中に入ったのですが、なんと時間切れで、戒壇めぐりは体験することができませんでした(ちなみに、戒壇めぐりの最終時間は夕方4時半まででした)。ここくらいだったらいつでも来ることができるので、まあ、仕方がないかな














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